ふなずし(鮒寿司)

1. 発酵が生んだ奇跡の保存食。そもそも「ふなずし」ってどんなお寿司?

旅人の皆さん、こんにちは。「ふなずし」と聞いて、皆さんの心にはどのような光景が広がりますか?艶やかなシャリの上に、新鮮な魚介が美しく乗せられた、現代の「握り寿司」を思い浮かべた方も多いかもしれません。しかし、私たちがこれから旅する「ふなずし」の世界は、そのイメージとは全く異なる、遥か古の時代から続く発酵文化の奥深い物語へと誘う扉なのです。

この「ふなずし」は、魚を米と塩で漬け込み、乳酸発酵させることで長期保存を可能にした「なれずし(熟れ鮨、馴れ鮨)」の代表格です。なれずしは、東南アジアの山岳地帯で生まれた魚の保存技術が、稲作文化と共に日本へ伝わったという説もあり、まさにアジアの食文化の知恵が凝縮された食品と言えるでしょう。酢を使わずに、米が発酵する過程で生まれる乳酸の力だけで魚の鮮度を保つ、先人たちの驚くべき発想から生まれました。

その中でも「ふなずし」は、滋賀県の郷土料理として、母なる湖・琵琶湖と切っても切れない関係にあります。原材料となるのは、琵琶湖の固有種である「ニゴロブナ」。この貴重な恵みを、冬を越えても美味しく食べられるように、という切実な願いと工夫が、この唯一無二の発酵食品を育んできました。冷蔵技術などなかった時代、これはまさに奇跡の保存食だったのです。

現代の寿司が魚の「鮮度」を味わう食文化だとすれば、なれずしは、発酵という「時間」が食材をじっくりと変化させ、新たな旨味と香りを引き出す、いわば“熟成”を味わう食文化。目には見えない乳酸菌という微生物たちの壮大な働きによって、魚はたんぱく質が分解され、アミノ酸の深い旨味をまといます。さあ、この奇跡の食べ物がどのようにして作られるのか、次の旅へと歩みを進めてみましょう。

2. 琵琶湖の宝石「ニゴロブナ」と米が出会う時。職人の技が光る、一年がかりの製造工程

ふなずしの心臓部、それは母なる琵琶湖が育んだ固有種「ニゴロブナ」の存在なくしては語れません。特に、春の産卵期(4月~6月)に漁獲される、卵をたっぷりと抱えた雌の鮒は「子持ち」と呼ばれ、そのプチプチとした食感と濃厚な旨味から格別の珍重を受けてきました。この命の輝きを、一年という長い時間をかけて、発酵という魔法で至高の逸品へと昇華させる、壮大な旅路がここから始まります。

旅の始まりはまだ肌寒さの残る春。漁師たちが丁寧に獲り上げたニゴロブナの鱗と内臓を、専用の道具で丁寧に取り除き(「ウロコカキ」と「エラワタヌキ」)、塩をたっぷりとまぶして桶に漬け込みます(「塩切り」)。重石を乗せ、夏の土用を迎えるまで、じっくりと魚の水分を抜きながら最初の熟成の時を待ちます。この工程が、後の発酵を正しく導き、雑菌の繁殖を防ぐための重要な羅針盤となるのです。

そしてうだるような暑さの夏の土用の頃、塩漬けにした鮒を取り出し、流水で塩を洗い流して今度は炊き立てのご飯と共に再び桶の中へ。鮒のお腹の中にもご飯を固く詰め、桶の中に鮒とご飯を交互に、隙間なく敷き詰めていきます(「飯漬け」)。最後にまた重石を乗せ、常温で静かに寝かせます。ここからが乳酸菌たちの本領発揮。秋を越え、冬を迎え、お正月を迎える頃まで、静かに、しかし力強く発酵の旅は続きます。職人の長年の経験と勘だけが頼りの、まさに一年がかりで完成する食の芸術作品と言えるでしょう。

3. 平安貴族も舌鼓?『延喜式』にも記された、1000年を超える悠久の歴史ロマン

私たちの発酵の旅は、時をさかのぼり、雅な平安時代へとたどり着きます。ふなずしの歴史は驚くほど古く、その存在は10世紀に編纂された法令集『延喜式(えんぎしき)』に「鮒鮨」として明確に記されているのです。これは、ふなずしが少なくとも千年以上も前から、日本の食文化に根付いていたことの動かぬ証拠に他なりません。

当時の「鮒鮨」は、近江国(現在の滋賀県)から朝廷へ納めるべきもの、つまり「税」の一つとして扱われていました。これは、ふなずしが単なる地方の保存食ではなく、都の貴族たちの間でも価値を認められる高級品であったことを物語っています。遠い琵琶湖のほとりで作られた発酵食品が、都人の食卓を彩っていたと想像すると、壮大な歴史ロマンを感じずにはいられません。

現代の私たちが口にするふなずしは、この千年という気の遠くなるような時間の中で、一度も途絶えることなく受け継がれてきた味なのです。製法はほとんど変わることなく、親から子へ、師から弟子へと、その土地の人々の手によって大切に守られてきました。一口味わえば、その風味の奥に、幾多の時代の風景と人々の営みが溶け込んでいるのを感じられるかもしれません。これほどまでに長く愛され続ける食文化は、世界的に見ても非常に稀有な存在と言えるでしょう。

4. “通”が唸るその風味の正体は?チーズにも似た香りと、体に嬉しい乳酸菌の秘密

ふなずしの旅において、多くの人が最も興味を抱き、同時に少しだけ身構えてしまうのが、その独特の「風味」ではないでしょうか。確かに、その香りは強く、初めての方は驚くかもしれません。しかし、恐れることはありません。これは熟成したチーズやヨーグルトにも通じる、豊かな発酵が生み出した「旨味の香り」なのです。この香りの正体こそ、私たちの目には見えない小さな旅人、乳酸菌たちの偉大な仕事の結果に他なりません。

飯漬けされた桶の中では、米をエサにして乳酸菌が爆発的に増殖します。彼らは乳酸を大量に生み出し、桶の中のpHをぐんぐんと下げていきます。ある研究によれば、熟成したふなずしの飯(いい)の部分のpHは平均4.1。これは強い酸性の環境であり、ボツリヌス菌をはじめとする腐敗菌や病原菌は到底生きられません。つまり、乳酸菌が天然のバリアを作り出し、魚の長期保存を可能にしているのです。

そして、この発酵の過程で、魚のたんぱく質はアミノ酸へと分解され、凝縮された旨味成分へと変化します。さらに、ふなずしには1gあたり数千万個もの生きた乳酸菌が含まれているとされ、その菌種は植物性乳酸菌の代表格であるラクトバチルス・プランタルムなどが知られています。近年の研究では、血中脂質の低下や抗血栓作用といった機能性も示唆されており、古の保存食が現代人の健康にも寄与する可能性を秘めているのは、なんとも興味深い話ではないでしょうか。

5. 神事にも登場する特別なハレの食。「すし切り祭り」と国の文化財が語る、ふなずしと暮らしの物語

ふなずしは、ただ珍重されるだけの食べ物ではありません。滋賀の地では、古くから人々の暮らしや祈りと深く結びついた、特別な「ハレの食」として大切にされてきました。その象徴とも言えるのが、守山市の古社・下新川神社で毎年5月5日に行われる「すし切り祭り」です。この神事は、なんと氏子たちが奉納された大きなふなずしを、烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)という古式ゆかしい装束をまとい、真魚箸(まなばし)と包丁で厳かに切り分けるというもの。

切り分けられたふなずしは神前に供えられ、その後、氏子たちに振る舞われます。この一連の儀式は、五穀豊穣や集落の安泰を祈るための神聖な行事であり、ふなずしが神様への最上の供物として位置づけられていることを示しています。この独特な祭りは国の選択無形民俗文化財にも指定されており、地域の文化を語る上で欠かせない存在なのです。

さらに2023年3月には、「近江のなれずし製造技術」が、国を挙げて守り伝えていくべき食文化として、登録無形民俗文化財に登録されました。これは、ふなずし作りが単なる食品加工の技術ではなく、琵琶湖の漁撈(ぎょろう)文化や食文化、信仰とも結びついた、地域固有の生活文化そのものであると認められたことを意味します。お正月やお祭りなど、人々が集う特別な日に食されるふなずしは、家族の絆を深め、地域の伝統を次世代へとつなぐ役割も担っているのです。

6. 幻の味になる前に。原料「ニゴロブナ」の減少と、食文化を未来へ繋ぐ人々の挑戦

千年以上にわたり受け継がれてきたふなずしですが、その未来は決して安泰ではありません。私たちの旅路は今、食文化の存続を揺るがす深刻な課題に直面します。その最大の要因が、主原料であるニゴロブナの激減です。かつては豊富に獲れたこの琵琶湖の固有種も、1960年代には推定500トンあった漁獲量が、1990年代後半には20トン以下にまで落ち込んでしまいました。

原因は一つではありません。ブラックバスやブルーギルといった外来魚による食害、湖岸開発による産卵場所(ヨシ帯)の減少、そして水位の変動など、人間活動が琵琶湖の生態系に与えた影響が複雑に絡み合っています。このままでは、ふなずし作りの伝統そのものが途絶えかねない、「幻の味」になってしまうかもしれないという危機感が、生産者の間に広がっているのです。

しかし、この伝統の灯を消すまいと、滋賀の人々は力強く立ち上がっています。県や漁業関係者は、ニゴロブナの稚魚を放流する活動を続け、生態系の回復に努めています。また、琵琶湖汽船が企画する「鮒ずし作り体験クルーズ」のように、消費者自身が漁師と共にふなずし作りを体験し、その文化的な価値や現状への理解を深める機会も生まれています。この伝統の味を未来へ繋ぐためには、私たち一人ひとりがこの課題に関心を持ち、支えていくことが不可欠なのかもしれません。

7. 初めてでも大丈夫!専門家が教える、ふなずしの美味しい食べ方と最高のペアリング

さあ、これまでの旅でふなずしの奥深い世界に触れた皆さんは、きっとその味を体験してみたくなっていることでしょう。ここでは、初めての方でも安心して楽しめる、ふなずしの美味しい頂き方をご案内します。まず基本は、周りについているご飯粒(飯)を丁寧に取り除くこと。この飯も貴重な発酵食品ですが、まずは鮒そのものの味を堪能しましょう。そして、3~4mmほどの厚さに薄切りにして、そのまま口に運んでみてください。凝縮された旨味と爽やかな酸味が、口いっぱいに広がります。

もし、独特の風味が少し強く感じられる場合は、薬味の力を借りるのがおすすめです。生姜醤油やわさび醤油を少しだけつけると、香りが和らぎ、さっぱりと頂けます。また、熱々のお湯やお茶を注いで「お茶漬け」にするのも、初心者にはぴったりの食べ方。ふなずしがふんわりと柔らかくなり、出汁に溶け出した旨味が格別の味わいを生み出します。

そして、ふなずしの楽しみはペアリングにもあります。滋賀の地酒と合わせるのはもちろん王道の組み合わせですが、実はチーズのような濃厚な発酵食品との相性から、しっかりとした味わいの日本酒だけでなく、意外にも白ワインやシャンパンともよく合います。クリームチーズのようにパンに乗せてみるのも面白いかもしれません。保存する際は、漬けられていた飯で包み、ラップで密封して冷蔵庫へ。正しい知識があれば、ふなずしの旅はもっと楽しく、豊かなものになるはずです。

8. おわりに:ふなずしは、過去から未来へと続く発酵の旅

千年の時を超え、琵琶湖のほとりで育まれた発酵の王様「ふなずし」をめぐる旅、いかがでしたでしょうか。私たちは、それが単に独特な風味を持つ珍味なのではなく、自然の恵みと先人たちの知恵、そして人々の祈りが幾重にも重なって生まれた、奇跡の食文化であることを知りました。その一切れには、平安の世から続く歴史のロマンが、力強い乳酸菌たちの生命活動が、そして地域の暮らしと文化の物語が、ぎゅっと凝縮されています。

ふなずしは、いわば「食べるタイムカプセル」。その蓋を開けるとき、私たちは過去と繋がり、微生物たちのミクロな世界に思いを馳せ、そして食文化の未来について考えるきっかけを得るのかもしれません。もちろん、ニゴロブナの減少という乗り越えるべき課題も存在します。しかし、その価値を知り、味わい、語り継ごうとする人々がいる限り、この発酵の旅が終わりを迎えることはないでしょう。

この記事を読み終えたあなたが、もし少しでもふなずしへの興味を深めてくださったなら、これほど嬉しいことはありません。ぜひ次の一歩として、実際にその味を体験してみてください。初めは小さく切った一片からで構いません。その一口が、あなたの「発酵の旅」を、さらに味わい深く、忘れられないものにしてくれるはずです。

関連記事

  1. しょっからいわし

  2. かぶら寿司

  3. さんまのなれずし

  4. そばみそ(蕎麦味噌)

  5. にしん漬け(鰊漬け)

  6. ごど

  7. ふぐの子(卵巣)糠漬け

  8. 金山寺味噌(きんざんじみそ)

  9. すんき漬け

目次