1. 千の手間が生んだ宝物、対馬の魂が宿る「せんだんご」とは?
発酵を愛する旅人の皆さん、新たな探究の旅は、九州の北、玄界灘に浮かぶ長崎県・対馬から始まります。この国境の島には、自然と人が織りなす唯一無二の発酵文化が根付いています。今回私たちが光を当てるのは、伝統発酵食品「せんだんご」。その名は一説に「千の手間がかかる団子」を意味し、長い時間と労力をかけて作られる島の宝物です。これは単なる食品紹介ではなく、微生物という見えざる仲間と共に、先人たちが紡いだ食の知恵と歴史を巡る、発酵ジャーニーへの招待状です。
主原料は、対馬の痩せた土地でも力強く育ち、島民の命を繋いできたサツマイモ。しかし完成品に、かつてのサツマイモの面影はほとんどありません。洗浄、破砕されたサツマイモは、清らかな水に数週間浸された後、約1ヶ月半もの時間をかけてじっくり発酵させます。この過程で、青カビを主とする多様な微生物群が複雑に関与し、デンプン質を分解。独特の風味と高い保存性を生み出すのです。収穫時に余ったり傷がついたりした芋を、冬を越すための貴重な糧へと昇華させる、まさに食の知恵の結晶と言えるでしょう。
長い発酵と乾燥を経て現れるのが、鼻をすっと高くしたような愛嬌のある形から「鼻高だんご」とも呼ばれる完成品です。その見た目のユニークさもさることながら、特筆すべきはその稀少性。世界に発酵食品は数あれど、サツマイモを原料に、これほど長期間の自然発酵、特に青カビの働きを主軸に置いた食品は極めて珍しいと考えられます。これは、対馬の気候風土と、人々が培ってきた経験知とが融合して生まれた、奇跡の産物なのかもしれません。
せんだんごを知ることは、対馬の歴史そのものを知ることにも繋がります。飢饉を乗り越える知恵、限りある資源を大切にする心、そして目に見えない微生物の力を信じ共存してきた島の精神が、この小さな団子に凝縮されているのです。さあ、この魅力に満ちた発酵食品が、どのような歴史と微生物の働きで生まれるのか、次の章から深く探っていきましょう。
2. 飢饉を救った薩摩の芋、原田三郎右衛門が繋いだ命のバトン
せんだんごの物語を語る上で欠かせないのが、その原料であるサツマイモが、いかにして対馬へともたらされたかという歴史です。時計の針を今から300年以上前の1715年(正徳5年)まで戻しましょう。当時の対馬は土地が痩せ、米や麦の栽培が難しく、たびたび食糧難に苦しんでいたと伝えられています。島の人々の暮らしは、常に飢えと隣り合わせの厳しい状況にあったことでしょう。
この状況を憂い、立ち上がった一人の人物がいました。対馬藩の郷士、原田三郎右衛門(はらださぶろうえもん)です。彼は、痩せた土地でもよく育ち、多くの収穫が期待できる作物として薩摩(現在の鹿児島県)のサツマイモに着目。幾多の困難を乗り越え、その種芋を対馬に持ち帰ることに成功したのです。彼の功績により、サツマイモは救荒作物として瞬く間に島内全域へと広まっていきました。
しかし、サツマイモは収穫量が多い一方で、生のままでは長期保存が難しいという課題がありました。そこで生まれたのが、収穫時に出る小芋や傷ついた芋でさえも無駄にせず、厳しい冬を乗り越えるための保存食へと加工する知恵でした。これが「せんだんご」の原点です。サツマイモを破砕し、発酵という微生物の力を借りて保存性を高める技術は、まさに生きるための必然が生んだ発明だったのです。
原田三郎右衛門が繋いだサツマイモという命のバトンは、せんだんごという形で島の食文化に深く根付き、人々の命を支え続けました。せんだんごを一つ手に取る時、私たちは、一人の郷士の熱意と、自然の恵みを最大限に活かそうとした先人たちの切実な願いに思いを馳せることができるでしょう。
3. サツマイモが「せんだんご」になるまで。数ヶ月に及ぶ発酵と再生の旅路
せんだんご作りは、サツマイモが全く新しい姿へと生まれ変わる、壮大な変身の旅路です。その工程は全体で約3ヶ月から4ヶ月にも及び、自然の力と人の手間が密接に絡み合います。この長い旅は、まずサツマイモを丁寧に洗浄し、細かく破砕することから始まります。細胞壁を壊すことで、後の工程で微生物がデンプンに作用しやすくなるのです。
次に、破砕したサツマイモを水に浸す「浸漬(しんせき)」という工程が待っています。期間は約1週間から数週間。この間にアクが抜け、サツマイモは発酵の準備段階へと入ります。そして、いよいよ旅の核心である「発酵」です。水を切ったサツマイモを樽などに詰め、約1ヶ月から1ヶ月半もの間、静かに寝かせます。この間、目には見えない微生物たちが活発に働き、サツマイモをゆっくりと分解していくのです。
発酵を終えた生地は、天日や寒風にさらして2〜3週間かけて乾燥させます。この「寒晒し」とも呼ばれる工程が、保存性をさらに高める重要な役割を担います。乾燥後、固くなった生地を再び水に浸して柔らかくし、布袋に入れて濾すことで、なめらかなペースト状に。この時点で、ようやくあの「鼻高だんご」の形に一つひとつ手で成形され、再度乾燥させて、ようやく完成となります。
この一連の工程は、対馬の各地域で少しずつ手順や期間が異なると報告されており、それぞれの集落で独自の製法が受け継がれてきたことがうかがえます。手間を惜しまず、自然のリズムに合わせて作られるせんだんご。それは、単なる保存食ではなく、対馬の風土そのものが生み出した食の芸術品と言えるのかもしれません。
4. 見えない主役たち。青カビが紡ぐ、唯一無二の風味の秘密
せんだんごの長く複雑な製造工程において、その風味と保存性を決定づける真の主役は、私たちの目には見えない微生物たちです。特に重要な働きを担うのが、チーズなどで知られるPenicillium(ペニシリウム)属の「青カビ」。一般的に食品においては敬遠されがちな青カビですが、せんだんご作りにおいては、この菌こそが唯一無二の個性を生み出す立役者なのです。
製造工程中の菌叢解析によれば、発酵段階で糸状菌であるMucor(ムコール)属やPenicillium属、酵母であるCandida(カンジダ)属、そして納豆菌の仲間であるBacillus(バチルス)属など、多種多様な微生物が確認されています。これらの微生物オーケストラが、サツマイモに含まれるデンプンやペクチンなどの繊維質を少しずつ分解し、複雑で奥深い風味と独特の食感を生み出していくと考えられます。
中でも、Penicillium expansumやPenicillium echinulatumといった青カビは、発酵への貢献度が特に高いと報告されています。これらの菌が生成する酵素が、デンプンを糖に変え、それがさらに他の微生物のエサとなることで、豊かな発酵の連鎖が生まれるのです。サツマイモを主原料とし、青カビの力を積極的に利用する発酵食品は世界的に見ても非常に珍しく、学術的にも高い価値を持つと指摘されています。
私たちは、せんだんごを味わうとき、単にサツマイモの加工品を食べているのではありません。対馬の環境に生息する微生物たちが、数ヶ月かけてじっくりと醸した「発酵の芸術」をいただいているのです。その背景にあるミクロの世界に思いを巡らせれば、一口の味わいがさらに感慨深いものになることでしょう。
5. 旅の思い出を食卓で。対馬の郷土料理「ろくべえ」と「せんだんご汁」再現レシピ
長い旅路の末に完成したせんだんごですが、これはあくまで中間材料。対馬では、これをさらに調理加工して食卓に並べます。最も代表的な食べ方が、麺料理の「ろくべえ」です。硬いせんだんごをお湯で練り戻して生地を作り、「せんこぎ」と呼ばれる、たくさんの穴が開いた押し出し器具を使って麺状に成形し、茹でて作ります。その独特の食感と素朴な味わいは、一度食べたら忘れられない島のソウルフードです。
ご家庭で対馬の味を再現するなら、温かい「せんだんご汁」はいかがでしょうか。鶏肉や季節の野菜、きのこ、豆腐などを具材にした出汁の中に、小さくちぎったせんだんごの生地を入れて煮込むだけの、心も体も温まる一品です。出汁の旨味を吸ったもちもちの団子は、まさに絶品。JAグループのウェブサイトなどでもレシピが公開されており、旅の思い出を語りながら家族で味わうのにもぴったりです。
簡単!せんだんご汁 再現レシピ(4人分)
- せんだんご(乾燥):約100g
- 鶏もも肉:1枚
- ごぼう、人参、椎茸などお好みの野菜:適量
- だし汁:1000ml
- 醤油:大さじ3
- みりん:大さじ2
作り方は、まず乾燥せんだんごを水で戻し、すり鉢などでペースト状にします。鍋にだし汁と具材を入れて火にかけ、野菜が柔らかくなったら、せんだんごのペーストをスプーンで一口大にすくって落とし入れます。団子が浮き上がってきたら、醤油とみりんで味を調えて完成です。せんだんごが手に入ったら、ぜひ試してみてください。
6. 挑戦してみたいあなたへ!せんだんご作りQ&A
ここまで読み進めて、せんだんごの世界にすっかり魅了された方も多いのではないでしょうか。その探究心をさらに深めるため、ここでは手作りや体験に関心のある皆さんから寄せられそうな疑問に、Q&A形式でお答えします。この発酵食品との関わり方を、より具体的にイメージしてみてください。
Q1. 本当に家で作れるの?必要な道具は?
A. はい、理論上はご家庭でも作ることが可能です。対馬市が公開している資料などを参考に、手順を踏めば製造はできます。しかし、数ヶ月という長い期間、発酵を管理し続ける忍耐力と、サツマイモを破砕したり、大量の生地を扱ったりするための相応の労力が必要なことは覚悟しなければなりません。麺に加工する際は「せんこぎ」という専用の道具があると、より本格的な「ろくべえ」が楽しめます。
Q2. 完成まで3ヶ月も待てない!もっと早く作る方法はないの?
A. その疑問に応えるべく、近年、研究が進んでいます。東京農業大学と対馬市が連携し、酵素や麹菌の力を借りて発酵期間を大幅に短縮する「速醸化」の技術開発に成功しました。この方法を用いると、従来約3ヶ月かかっていた製造期間を、なんと約2週間にまで短縮できるという報告があります。伝統の味を守りつつ、現代のライフスタイルに合わせた新しいせんだんご作りの可能性が広がっているのです。
Q3. 作るのは難しそう…でも、もっと深く知りたい!
A. ご安心ください。対馬には、発酵の旅人にぴったりの体験プログラムがあります。「対馬グリーン・ブルーツーリズム協会」などを通じて、現地で専門家から直接指導を受けながら「せんだんご作り」を体験することが可能です。実際に土に触れ、発酵の香りを肌で感じ、地元の方々と交流する。これ以上に贅沢な学びの機会はないでしょう。旅の計画に組み込んでみてはいかがでしょうか。
7. おわりに:未来へ繋ぐ、島の恵みと先人の知恵
青カビと島人が育んだ奇跡の発酵食、せんだんごを巡る旅はいかがでしたでしょうか。飢饉を救った歴史的背景から、数ヶ月に及ぶ壮大な製造工程、そして目に見えない微生物たちの神秘的な働きまで、その魅力の奥深さを感じていただけたなら幸いです。この小さな団子には、対馬の風土と、先人たちの知恵、そして力強い生命力が凝縮されています。
しかし、その伝統の継承は、決して平坦な道のりではありません。製造に多大な労力がかかること、そして製造者の高齢化が進み、後継者が不足していることは、この素晴らしい食文化が直面している厳しい現実です。このままでは、いつか「幻の食品」となってしまう可能性も否定できません。私たちは、この貴重な文化遺産を失うわけにはいかないのです。
幸いなことに、希望の光も見えています。大学と連携した速醸化技術の研究や、観光客向けの体験プログラムの実施など、せんだんごの価値を再発見し、未来へと繋いでいこうという新しい動きが始まっています。伝統を守りながら、時代に合わせて進化していく。その姿は、発酵食品そのものが持つ、しなやかな力強さと重なるように思えます。
この記事を読んだあなたがせんだんごに興味を持ち、いつか対馬を訪れたり、その物語を誰かに伝えたりすること。それこそが、この貴重な食文化を未来へと繋ぐ、大きな一歩となるはずです。さあ、発酵の旅はまだ始まったばかり。次はどんな未知の食と出会えるのか、期待に胸を膨らませて、また次の旅へと出かけましょう。